弔い

死にたい気持ちを埋葬して、わたしだけは毎年墓参りができたらいい。これでもくらえ、という気持ちで書いて、殴り返されたり、ぜんぜん届かなかったり、正論だけを武器にした人間に嘲笑されたりする。

格好つけたいだけなら作ることなんて今すぐやめたほうがいいですよ。

自分の肉体を裂けばピンク色であることだけが救いのようで、でもきっとあの子のそれとは違うのだろうな。

笑っていてね。ずっと。

本当のことを言わなくなった。

自分の話なんて誰も興味がないことは幼い頃から日々の食卓で言葉なく教育されていて、わたしの腹のなかは堕胎した言葉の墓場だ。

ただ、興味のない話は受け入れなきゃ怒られる教育も同時におこなわれていて、わたしはわたしを形作るために物を書きはじめた。

書くことが救いで武器で肉体よりも肉体だった。だから今でもすがりついていて、でも書けなくなって、だったら今のわたしって意味ないなって本気で思う。

自分の大切くらい自分で適切に守りたい。それができなくて平和に生きるなら死にたい。

誰に許されなくたってわたしがわたしのことを許すために。

泥と熱

 

    すれ違うと、長谷川からはいつも土の匂いがする。僕は静かに息を飲む。肩がぶつかって、悪りぃと声をかけられただけで、喉が焼けつくように熱くなって声は引っ込んだまま出てこなかった。 
「感じわる」 
    長谷川の隣にいるやつが僕を睨んだ。長谷川は一瞬だけ僕を見た。そして気にしないと言うようにヘラヘラと笑って、話の続きを再開させた。長谷川が僕を見た。その事実だけで、僕は逃げ出したかった。視界になんて入らなくていい。存在なんてずっと知られたくない。やっと吐き出せた息は燃えているように熱かった。 

    スタートの笛が鳴って走りだす瞬間を、二階の図書室から見送れるのもあと僅かだ。9月になれば長谷川は陸上部を引退する。きっと後輩や同級生からたくさんの花を貰って、たくさん惜しまれながら、あっさり走るのを辞めるのだろう。僕は長谷川が走るのを見るのがすきだった。空気を二つに裂いていくように真っ直ぐ迷いなく突き進む姿が美しいと思った。しなやかな腕のふりも、力強く地面を踏みしめる足も、僕の身体のどこにもないものを、誇示せず当たり前のように持っている長谷川のことが美しいと思った。同時に泥のように滑った自分自身を恥ずかしく思う。 
    運動場から歓声があがり見おろすと、長谷川が部活仲間たちに囲まれて笑っていた。「やったな」「おめでとー」そんな弾んだ声の中心に長谷川はいた。自己ベストがでたらしい。喉の奥が見えそうなほど恥ずかしげなく口を開けて笑っている。しらない誰かが長谷川の肩を抱く。また次の誰かが髪をくしゃくしゃと撫でつける。もし僕がもっと明るく笑えていたら、上擦らずに声を出せていたら、あんな風に簡単に長谷川に触ることが許されたのだろうか。長谷川の髪はきっと細く柔らかい。腕は筋肉で硬いだろう。そして腹は冷たいから、きっと僕は自分の掌の温度が恥ずかしくなる。行き場のない熱が下半身に集中する。誰もいない図書室は自分の焦った呼吸音がいやなほど聞こえてきた。震える手を下着の中に入れる。長谷川から香る土の匂いを思いだす。僕の名前を呼ぶ声を想像する。長谷川の手が僕自身の熱を吸い取るかのように掌をはわせて上下にしごく。骨ばった指の感触はおなじ男なのに、僕よりもずっと大きかった。額の汗が頰にゆっくり流れた。僕は思い切り息を吸い込み、土の匂いを全身に感じる。僕は身をよじるけれど、長谷川は笑ったまま離さない。手の動きが次第に早くなり同時に息があがる。すきだよ、目の前の唇がたしかにそう動いたとき、僕の掌は白濁に染まっていた。僕の内側から溢れ出した、どろどろの誰にも見せられないそれは、僕のすべてだった。長谷川をすきだという、僕そのものだった。

おわり

もうあの人との子供は産めないんだな。

結婚できたとしても一生添い遂げることは無理だと思ってたけどあの人との子供なら育てられると思ったんだけどな。この気持ちは見ず知らずのひとに否定されるものかもしれないけれど、わたしの大切はもうすでにぼろぼろだから勝手に壊せばいいと思う。わたしはその残骸を掻き集めて立っていたい。

このまま見えないものに押し潰されていくのかな。ひとが簡単にできることを、簡単にできない人生だったことを思い出してしまった。誰のこともすきじゃない。

嘘みたいな日々は嘘じゃない。

誰にも証明できないけれど。

年末からずっと死にたいとだけ思いながら布団に包まって息をしていたから、年が変わって、なにがめでたいのかよくわからない。年が明けてもわたしがわたしである限り、わたしの業は剥がれないのだから、簡単に生まれ変わったりなどしない。それでもいつまで続くかわからないこんなブログを始めるきっかけをくれたのだから、年が変わることに、可能性というものはあるのかもしれない。それにしても、わたしはいくつ読まれない文章を書けば気がすむのだろう。でも、読まれなくてもいいと思ったことはたった一度もない。文章もおしゃれにならなければ、読んでもらえない時代ならば、わたしの血肉をファッションにしてくれても構わないから読んでくれよと思う。2018年に対してわたしの毎日は地続きであるから別におめでとうとは思わないのだけれど、これを読んでくれるあなたに会えることを期待している。それはきっとおめでとうだと思う。